病と人間の物語③

2024.02.29院長コラム

表書院は48畳の大広間である。天井が高い。上段の間が8畳あり、1段下がった中段の間が12畳、さらに1段下がった下段の間が28畳あり板敷の縁側へと続いていた。

縁側の外は中庭で黒松と赤松の巨木が豊かな緑を見せている。

下段の間は畳を外して能や狂言の舞台として使うこともできた。加納寺二郎左衛門七秀は能、狂言の愛好家で観阿弥の「卒塔婆小町(そとばこまち)」は特にお気に入りの作品だった。

上段の間には床と棚が据えられていて、違い棚(ちがいだな)の横には一幅(いっぷく)の掛け軸がある。絹の本紙には漢文が書かれていた。『戦国策』の言葉である。

 愚者闇於成事 智者見於未萌

―愚者は成事(せいじ)に闇(くら)く、智者は未萌(みほう)に見る―



表書院の中央付近に座るように促されたイネスは中段まで進んだ。

正座したイネスの左斜め後方の下段には木村玄馬が控えていて、いつでも抜刀できる体勢をとっている。

狩野派の金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)が大広間の三方を取り囲んでいた。

黒松と赤松の巨木の枝に7羽の白雉の姿が点在している。翼を広げて空を見ている雉もいれば、頭部を後ろに回して背中の羽に口ばしをうずめて眠っている雉もいる。

イネスが待っていると大広間上段側面の白雉が動いた。襖を開けて細身で長身の侍が現れたのである。太刀持ちの小姓の姿はない。

鼻梁が高く彫の深い侍は濃紺の肩衣を着ていた。朱鞘の打刀と脇差を腰の「角帯」(かくおび)に差している。

上段に座った侍が口を開いた。

「身共(みども)が加納寺二郎左衛門七秀でござる。南蛮のお方が当家に如何なる御用かな?」

よく通る声が大広間に響いた。いくぶん甲高い声である。七秀は今年で40歳になるが30代前半にしか見えない若々しさだった。

「私はイネス・ペドロサという者です。男の恰好をしていますが女です。長崎で貿易商をしております。主に生糸を扱っていて長崎以外に大坂にも商館を構えております。今日は正義を実現するためのご助力を仰ぎにまいりました」


(正義のための助力だと…。奇妙なことを言いおるわ)

「イネス殿とやら、お主は正義を実現したいと言う。そのための手助けが、この俺にできると言うのか?」


二郎左衛門(じろうざえもん)様にしかできませぬ」


イネスはよどみなく続ける。


「私はキリシタンを、そして南蛮を憎んでおりまする。そして、敬虔なキリスト教徒だと名乗り私の故郷の村を滅ぼした南蛮人の男を敵(かたき)と狙っているのです。その悪魔は、今、この国におりまする。私はその悪魔を倒し正義を実現したいのです」

「フ~ム。どうも合点(がてん)がいかぬな。南蛮人どうしの内輪もめでお主の故郷の村は滅んだのか?お主はキリシタンと南蛮人ども全員を仇と狙っておるのか?」

「違います。キリシタンにも南蛮人にも善人もいれば悪人もいます。確かに私はキリシタンや南蛮が嫌いです。しかし、キリシタンや南蛮という国々のすべてを仇とみなしているわけではありません。私が復讐したいのは故郷を破滅させた悪魔の男一人だけです。それ以外は私には関係ありません」

「お主は『わたくしの(個人的な)仇討ち』をしようというのだな?」

「ハイ、そうです。キリスト教そのものとか、南蛮という国家そのものと戦おうなどとは毛頭考えてておりませぬ。死に値する悪行をなしたイスパニア人の男に罪を償わせ正義を実現したいだけなのです」



加納寺七秀は問いただした。

「キリシタンや南蛮など関係がないとお主は言うが、復讐のために巻き添えを喰って無関係なキリシタンや南蛮人どもが殺される破目になっても気が咎めぬのか?」

「まったく咎めません。私は復讐を遂げるためにキリスト教徒のふりをして今日まで生きて参りました。正義の実現のために自分を偽ってきたのです。ただの一度も真実のキリスト教徒になったことはありません。正義の達成こそが唯一の生きる目的…。そのためにキリシタンや南蛮人がどれほど犠牲になろうとも私は一切、気にしません。彼らの運命など知ったことではないのです」

イネスは大きな声で続ける。

「それに私の故郷は南蛮ではありませぬ。インカという国です」

七秀は首を上下左右に回した。コキッと音が鳴った。それから右手で拳を作り左の肩を数回、強く叩いた。

「インカ?まあ、よいわ。お主が南蛮出身でもインカとやらの出でも構わぬ。大切なことは一つじゃ。お主の仇討ちに力添えして、この俺にどんな得があるというのだ?」

「おおいにありまする。あなた様の宿願であるキリスト教信仰の完全な禁止、この国からの伴天連とキリシタンの完全な排除が達成できるのです」

「たわけたことを申すな。太閤殿下(豊臣秀吉)は10年前(1587年)に伴天連追放令を出されておられるが、庶民がキリスト教を信仰することは禁じておらぬ。なるほど過日(1597年2月5日)、長崎でキリシタンども26名を磔にはしたが、南蛮貿易のうまみもあることゆえ、殿下も肚の底では、お主の言う『完全な禁教と完全なキリシタン排除』を躊躇されておられるのが実情じゃ」

秀吉はキリシタンの広がりを恐れる一方で、徹底した排除政策により南蛮との商賈往還(しょうこおうかん→交易)が断たれることも懸念していた。

1587年に伴天連追放令を出したあとも、あからさまな布教活動さえしなければキリシタンを事実上黙認するという姿勢を維持してきたのである。

確かに去年のサン=フェリペ号事件は秀吉のキリシタンに対する負の感情を刺激した。このことは間違いない。

1596年、マニラからノビスパン(メキシコ)を目指して航行中のイスパニア船サン=フェリペ号が遭難し土佐に漂着した。

事件の処理の過程で秀吉はフランシスコ会などのイスパニア系の会派とイスパニア人への悪感情を増幅させたと言われる。しかし、それでも秀吉はのちに徳川幕府が断行したような徹底したキリシタン弾圧には踏み切っていない。

領主から強制されることなく、庶民が自発的にキリスト教を信仰すること自体は罪に問わない―



秀吉は基本方針を変えてはいなかった。七秀はたたみかけるように言う。

「だいたい日本では黒色火薬の原料となる硝石が取れぬ。いくら種子島(火縄銃)本体を多量に作ったとて火薬がなければ使い物にならぬわ。硝石は南蛮人どもとの交易で輸入しておる。そう簡単に南蛮貿易はやめられぬ」

イネスは即答した。

「世界にはポルトガルやイスパニア以外にも多くの国々があります。キリスト教を奉じていても布教活動をせず貿易の利のみを追求する国もあるのです。二郎左(じろうざ)様、『豊臣皇帝陛下』が私の話をじかにお聞きになれば、必ずやこの国から完全にキリシタンを排除しようとご決断なさることでしょう。そして、それはキリシタン嫌いのあなた様の宿願でもあるはず」

イネスは太閤豊臣秀吉のことを『皇帝陛下』と呼んだ。七秀はイネスの発言を即座に訂正した。

「イネス殿とやら。太閤殿下は皇帝ではない。わが日本国で最もやんごとなきお方は禁裏のうちにおわします帝(みかど)である。太閤殿下も帝の家来の一人にすぎぬ」

「異国育ちの私には日本の国柄は複雑すぎてわかりかねます。世界の他の国々では太閤様のような存在を皇帝と呼びます」

「異国人ゆえ仕方がないことか…。まあ、好きに呼ぶがよい。それにしても、なにゆえ太閤殿下への取次を俺に頼むのだ。大名は俺以外にもあまたおるではないか?」

「あなた様は陛下の信頼が厚いだけでなく、この国随一のキリシタン嫌いです。この日本で皇帝陛下に私を紹介し謁見させることができるのは、あなた様をおいて他にいらっしゃらないのです。皇帝陛下が私の言葉をお聞きになれば、必ずや完全な禁教へとお心を変えられることでしょう」

「左様なことはあり得ぬ。たった一人の南蛮人の言葉で太閤殿下がそこまで心を動かすことなど想像もできぬわ」

イネスはひるむことなく会話を続ける。

二郎左様。私の言葉の一つ一つは弾丸と同じです。それも、ただの弾丸ではございません。鉛ではなく『血で造られた弾丸』なのです。命が吹き込まれています。私の口から出る『魂の弾丸』が皇帝陛下の心に深く食い込み必ずやお心を変えます」

「大仰(おおぎょう)な!たかが言葉ではないか?口先から放たれた言葉にどれほどの力があるというのだ」

イネスは七秀との会話が始まってからというもの七秀の目から一度も視線を逸らすことがなかった。

「言葉の力は偉大です。命の宿った言葉は感情を揺さぶり黄金の山よりも強い力を発揮し、ときに人を殺すこともあります。強力な言葉の魔力が時代を動かすことさえあるのです。歴史が証明しています。例えば…」

七秀は右手を頭上高く挙げると大きく左右に振った。

「もうよい。やめられよ」

手を下げると七秀は右手の示指の第3関節を左手でポキッと1回だけ鳴らした。

「イネス殿とやら、歴史の講釈はいらぬ。それほど言うのなら、お主の言う『命の宿った言葉』なるものを俺に聞かせてみよ。もし、お主の言葉に『歴史を変えるほどの力』を感じるのなら望みどおり太閤殿下へ引き合わせてやろう」

「かしこまりました…」

イネスは七秀と対面してから初めて視線をそらした。濃い紫の畳縁を一瞥したあと、イネスは数秒間、目を閉じて大きく深呼吸した。それから、上座であぐらをかいている加納寺二郎左衛門七秀の顔を再び見た。

イネス・ペドロサの紅い口から『血で造った弾丸』が飛び散り空間を切り裂き始めた。



どれほどの時間が流れたのであろうか。

南中していた太陽の位置は西寄りになっている。中庭の黒松と赤松が織りなす陰も広がってきた。



すべてを語り終えたイネスは懐から小さな手鏡と化粧道具を取り出していた。額だけ化粧が剥げ落ちている。

イネスは地肌が剥き出しになっている額に入念に白粉(おしろい)を塗った。額の処置を終えたイネスは手鏡と化粧道具をカルサン(南蛮服のズボン)のポケットにしまい、それから黙って畳縁を見つめた。

加納寺家の中老、木村玄馬はイネスの左斜め後方で不動の姿勢を維持している。

加納寺七秀は両目を閉じている。3人の人間しかいない表書院には物音一つしない。2、3分も経ったであろうか。ようやく目を開けた七秀が沈黙を破った。

「ウ~ム。恐れ入ったわ。お主の額の『刻印』、確かに見届けたぞ。それにしても、かほどに重く心にのしかかる話は耳にしたことがない。お主の言葉、ひょっとすると太閤殿下のお心を変えるやもしれぬ…」


七秀は立ち上がると正座しているイネスのすぐ前まで歩いて行き、そこにあぐらをかいて座った。


「イネス殿を太閤殿下にお引き合わせいたそう。この加納寺二郎左エ門七秀、確かにお約束する」


「ありがとうございます」


イネスは日本の作法に従い、深々と平伏した。


「イネス殿、面をあげられよ」


上体を起こしたイネスに七秀が言った。

「かくなった上は俺とお主はキリシタン打倒の同志じゃ。大坂城内にも奉教人(キリシタン)となった者どもが数多く詰めておる。奥勤めの女房衆や侍どもにもキリシタンは少なからず混じっておるのだ。ゆえに、太閤殿下に拝謁すれば、われらが振る舞いはすぐに世間の知るところとなろう。さすればお主が敵(かたき)と狙う南蛮人がお主の命を狙うは必定。いかがなされるご所存か?」

「長崎と大坂の商館を閉じて、私と腹心の下僕ムリロの2人が潜伏するための隠れ家をこれから探します」

「危ないな…。すぐに下僕ともども当屋敷に滞在なされよ。身の安全を図らねばならぬ」

「ありがとうございます。ご厚情に甘えて、ご当家に寄宿させていただきます」

「さて、一味徒党の間柄となった俺とお主じゃ。俺もまたお主に『刻印』を見せねばなるまい」

「二郎左様にも『刻印』があるのですか?」

「お主は『正義の実現のために自分を偽って生きてきた』と言ったな」

「ハイ、申しました」

「俺も同じよ。嘘で塗り固めた偽りの人生を送ってきたのだ。だが、幼き頃よりかわらぬ真実が一つだけある。その真実を表すのが、わが肉体に刻みし『刻印』である」


七秀は控えていた木村玄馬に言った。

「玄馬、ご苦労であった。下がってよい」

木村玄馬は一礼して退出していった。



玄馬がいなくなると七秀は左の手のひらをイネスの眼前にかざした。そこには十字の形に隆起した傷跡があった。

加納寺二郎左エ門七秀は、なぜ自分がキリシタンの敵となったのかを話し始めた。

イネスだけに…。